【備忘録】ロロ「父母姉僕弟君」@王子小劇場

備忘録。
注目の若手、三浦直之氏による劇団ロロの「父母姉僕弟君」。twitter上でも話題になってたので気になって、追加公演を観にいく。確かにこれはすごい。「才能を感じる」ってこういうことでしょうか。とはいえ、ドタバタの時期だったので感想は当時のtwitterより。

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ロロ「父母姉僕弟君」観てきた。なんだこれすごい。全然感想が書けない。開始後30分は「うーん、これは失敗したかも...」と思ってた。が、支離滅裂なのになぜか集中力途切れず観られて、最後はボロボロ泣かされてました。なんなんだこれは。

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ロロ「父母姉僕弟君」、2時間は冗長で、もう少し短くできると思うけど、前半の散乱、分裂的なシュールさがなければ、後半のカタルシスに結びつかないのかも。前半の圧倒的な意味不明さと、後半のわかりやすさ、センチメンタルな演出、エンディングのスマートさのギャップは、狙っているのなら圧巻。




以上が引用。

1個目のtweetがほぼすべての感想なんです。
とにかく前半はナンセンスとパロディと隠喩が満載で、面白いのか面白くないのかわからないままに時間が過ぎていくんですが、それでも席を立てないのは、ネット上の評判がよかったのもあるけど、小道具の演出や隠喩がユニークだから。あえての「安っぽさ」と「サブカルっぽさ」が印象的。今回は、事務机や椅子を役者が動かしながらのセットが絶妙でした。

以下、ネタバレしますが、やはり圧巻は終盤のベニヤ板を舞台前方いっぱいにはりめぐらす演出でしょう。
主人公の独白、板を壊す動きには、物語の中盤までのナンセンス・ギャグに覆い隠されてきた、大事な人を失った主人公の激しい悲しみと怒りが爆発的に表現される。その後、ベニヤ板の壊れ目から差し込む強い光で観客も一瞬視界を失ってから立ち現れる「思い出の場所」の静けさと死んだ恋人との「別れのあいさつ」の美しさはきわめて効果的でした。

エンディングの演出は、終盤のセンチメンタルとは再び距離をとって、気ままに車を運転する男の表情へ戻ります。運転する(演技を続ける)男の横で、出演者たちがカーテンコールのため次々と客席にお辞儀していく、というのも痺れましたね。幕が下りて(または役者全員が同時に芝居をやめて)舞台の世界が現実と線引きされたままに終わるのではなくて、舞台の世界が少しずつ現実の世界に溶け出すような感じがして。


という感じで、初の劇団ロロは驚きに満ちたものでした。もっと分析的に書けたらなぁ!と思いますが、こんなところで。

NYLON100℃「百年の秘密」@本多劇場

【一部ネタバレありなのでご注意ください】

NYLON100℃の38th session「百年の秘密」@本多劇場。まずはケラ氏自身による公演紹介文を。

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二人の女性の半生を描くつもりだ。
彼女と彼女は青春時代に出会い、友人関係を築く。とは言え、ずっと一緒にいるわけではなく、人生の局面で幾度か再会し、やがて別々に死ぬ。そんな話。これが男性同士であれば、いわゆる「友情物語」になるのかもしれない。そうなるのを慎重に避けるべく、女性の物語にしたとも言える。「女性同士に真の友情なぞ成立し得ない」などというつもりは毛頭ないが、そして私は男性であるから本当のところは判らないが、やはりどうもしっくりこないのは、「生涯に渡り続く友情」はもはやロマンの領域だからだ。女性の場合、概ね「生活」が「ロマン」を凌駕するのではないか。「友情」などという言葉ではとても語り尽くせぬ、複雑でデリケートな関係を描ければと思う。そんなドラマでこそ、二人の間の秘密、二人をとりまく秘密は深淵さを帯びるだろう。

昨年(2011年)のナイロン100℃は、映画の為に書かれた台本を脚色したモノと再演だったから、劇団への純書き下ろしとしては、一昨年の「2番目、或いは3番目」以来となる。今回はシリアス度もシニカル度も高め。覚悟して頂きたい。全力を尽くす。(公演チラシコメントより)

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●ありがちな女の友情=「女って怖いッスね」へ堕さずに女の友情を描く方法
「女の友情を描きます」と言われると、戸惑いません?大抵の作品が女の嫉妬や陰湿さを描けば「女の友情」を描いたと勘違いしてしまうのを何度も見てきました。「幼い頃は仲良しだった二人も、大人になって互いを比較し嫉妬して、時には裏切ったり助け合ったり、愛憎抱きながらもラストは大団円」なんていう手垢のついたイメージ、薄っぺらいソープドラマは見飽きている。本当に「女の友情」って、これほど型にはまったものでしたっけ?上のケラ氏のコメントを読んだときに、だから、一抹の不安を抱かずにはいられなかった。

でもねー、そんな不安を抱いた私がバカでした。本当にすみませんでしたと謝りたい。こちらが予想した以上の深みをもって、女の友情を扱ってくれました。さすがは「女優を使うのがうまい演出家」。もちろん、手垢のついたイメージが皆無であったわけではないし、説明してしまえばよくある設定、さほど珍しくない物語展開だったのかもしれません。それでもこの作品が女の友情というテーマで「深度」を保ちえたのは、おそらく「女の友情そのものを描いた作品ではない」からだと思っています。

物語の軸に据えられるのは主人公二人の幼少期から死後までの「女の友情」なのだけれど、その具体的な中身を直接に描くことが徹底的に避けられている。そのような描き方ではなくて、この二人の「友情の周囲」に起こる家族の人生(上流階級家族の没落)が時間軸をテンポよく行き来しながら丁寧に描かれることによって、その「友情の周り」からこの二人の友情が照射される仕組みになっている。二人自身の出会いや裏切り、別れといった事件は語り手や登場人物たちのやり取りから推測されるのみで、二人がそこでの思いを無駄に吐露することが禁欲的に排除されている。ラストの再会と衝撃的な人生の幕引きのシーンでさえ、感情を吐露する説明的な台詞は二人の口からはほとんど語られることがない。それでも、3時間強をかけて描かれる二つの家族の人生にこの二人の友情は無関係ではいられないし、時にはその友情が家族の悲劇の引き金をひくきっかけともなっているがゆえに、観客は家族の一生+αに立ち会いながら、この二人の「友情」そのものを考えずにはいられないのです。

この描き方はずるい、とする見方もできるかもしれません。でも私は、「女の友情」という厄介な素材を扱う時の巧さと真摯さみたいなものを感じました。やはりケラさんってドロドロした内面吐露的なものをすごく恥ずかしいしダサいと思っている節があって、その都会的で洗練された感性では描ききれない素材もあるのだけど(地方出身者の上京物語とかね)、こと今回の女の友情という素材に関しては、それがプラスに働いていると思います。いま上のケラ氏のコメントを再読すると、まさに「「友情」などという言葉ではとても語り尽くせぬ、複雑でデリケートな関係(・・・)そんなドラマでこそ、二人の間の秘密、二人をとりまく秘密は深淵さを帯びる」作品になりえていたと感嘆したのでした。

●「犬は鎖に〜」「わが闇」以来織り重ねられたケラ流人生賛歌の傑作
総勢20人以上の役者が演じる二家族100年あまりの人生を描く今作は、「女性」「家族」を中心に据えて移ろう日々の美しさと悲しさを描く「わが闇」と似た雰囲気。パンフをみると、やはり作者自身も、2007年「わが闇」の変奏として作ったと明言しているほか、もともとは同2007年「犬は鎖につなぐべからず」の公演で人々の何気ない日々の移ろいを描く作品を演出したことでその後の劇作に影響を与えたとのこと(今作パンフレット:7)。奇しくも私が初めてナイロンを観たのは2007年の「犬は鎖につなぐべからず」。そういえば今作でよい味を出していた萩原聖人も、「犬は鎖につなぐべからず」に出演していましたね。

時間幅をとるという点で、今回最も画期的だったのは、時間軸の飛ばし方。時間軸に沿った流れでなく、時間を行き来する構成は珍しくないけれど、圧巻は一幕で主人公2人の死後の時点に飛んだこと。家族がだんだんダメになるのを追うのではなく、数十年後の没落ぶりを突然見せられる衝撃。主人公死なせちゃっていいの?という約束破り。観客の予想を裏切る破調にしたことで、「いったいこのあとどんな物語になるの?」「この間に何があったの?」と緊張感を保ったまま2幕まで駆け抜けられたと思います。伏線の配置と回収も絶妙。

こうした構成をとった狙いが、今作パンフレット(:8)「現在・過去・未来を移動するカメラの視点」の項で少し語られています。ワイルダーを引きながら「登場人物に寄り添う形で、なおかつ、全体を見渡していく感覚を持ちたい。(・・・)ズームに寄ったり引いたりしないで、登場人物の過去から未来への流れを、カメラが横移動で撮っている。時折りどこかのポイントで止まる。(・・・)ある人はその時、羽振りが良かったけど、ある人はどん底にいた。で、また違うポイントでカメラが止まると、それぞれの状況が変わっていたりいなかったりする」「今回ひとつ目指しているのは、観客と登場人物の状況認識の変化を大きなポイントにすることです。(・・・)「登場人物がわかっていることを観客はわかっていない」地点を通過し、やがて最終的には「登場人物がわかっていないことをお客さんはわかっている」というところで終わらせたい」。いやー、この狙いにはやられましたよ、完全に。

2007年以降観てきて、「わが闇」や「シャープさん、フラットさん」、「ノーアート・ノーライフ」もそうだったけど、シチュエーションものというよりは、一定の時間幅をとって人生悲喜劇を群像劇でみせるのが大変にうまい作家という気がしています。文学的な重さを嫌う分、ポップな演出ともあいまって、「人生」描写に抑制がきく。今作では時間幅を広げたことで、単なる成功譚でも没落悲劇でもない、勝ち組負け組といった二項対立では決してない人生の味わい深さが他昨よりも強調された作品になっています。今作パンフでも、「でも今、震災を経て、“ハッピーエンドではない最後”というのを考えるんです。(・・・)ラストはハッピーエンドでなかったけど、それだけでその人生を判断していいのか、ということですね」「今という時間とか死ぬ時の状況で、全部が否定されたり可哀想と哀れまれたりするのは違うと思えて仕方ない」(同:7)という気持ちが今作を書くきっかけになったことが語られています。

●舞台装置と映像で痺れたければNYLONに行け!
二階建ての舞台装置に映像を重ねる今回のオープニングは、「シャープさん、フラットさん」ですでに体験済み。しかし何度見ても、演劇だけでも映像だけでも実現できないポップでスタイリッシュな視覚表現は「洗練」という形容詞がぴったり。劇中でもアニメーション+照明で登場人物の心情を表現する手法がふんだんに使われていて、特に漫画のベタ塗りを思わせる墨色アニメーションは「わが闇」を思い出させてくれます。

twitter情報(豊崎由美さん@toyozakishatyou)によれば、「KERAさんは舞台に映像を取り入れた最初期の演出家ですが、今回の上田大樹さん(『TeZukA』の仕事はネ申!)とのコラボレーションはとりわけ素晴らしいのひと言。オープニングのキャスト紹介から「ほぉ〜っ」と嘆息の連発。このセンスは一見の価値あり」とのこと。(twitterの個別ツイートの引用方法がわからん;)個人的には、最初の役者紹介は少し冗長な感じがしましたが、やはり映像は圧巻でしたね。あれが楽しみでNYLON100℃を観に行ってるといっても過言ではないので、映像始まったらテンションあがりすぎてハァハァしてしまいました。

(それから豊崎由美さん(@toyozakishatyou)のツイートでは、「様々な時間の様々なシーンに連れていかれます。それらは伏線のように作用しあうので、観ているうちにだんだんといろんな事情がわかるという構成になっているわけですが、この戯曲の素晴らしい点は、だからといってすべてが説明されているわけではないというところにあるのです」という感想にも激しく同意。)

●隙のないキャスティング、抜群の安定感、強いて欠点を挙げるなら。
これはもう言わずもがななのであまり書きませんけど、NYLON100℃の役者さんたち技術の高さが光りすぎで、なんの不安もなく観ていられますよね。客演俳優も大変に良かったです。(それから大倉孝二ファンとしては、スリーピースのスーツ姿が観られた眼福といったら。笑)

強いて欠点らしきものを挙げるなら。
1)物語の鍵となる楡の木ですが、あの木が喋ってしまうのはいただけないのではあるまいか。木はあくまで人間が勝手に感情を投影した存在であって、そんな人間の営みとは無関係に時を刻む存在としてあるべきだったのではないかと。
2)1)に関連して、ほぼラストシーンで松永玲子演じるポニーが「不思議ね、私たちの喜びや悲しみを受け止めながらこの木はこれから先もここに存在し続けるのね」(超うろ覚え)的なことを言うのだけど、あぁそこは観客がそこはかとなく感じとることであって、セリフで説明しては蛇足なのでは・・・と思ったのでした。

しかし以上も「強いて挙げれば」という話。観劇後の満足感は保証いたします。オススメ。

ナイロン100℃「ノーアート・ノーライフ」

ナイロン100℃ 37thSESSION「ノーアート・ノーライフ」
作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 出演:みのすけ 三宅弘城 大倉孝二 廣川三憲 吉増裕士 喜安浩平 温水洋一 山崎一
於:本多劇場


感想詳細は後日。今回のパンフが素敵すぎたので、先にあげときます。ナイロンといえば「ポップ」という代名詞がつくことが多いけど、このパンフはその真骨頂じゃないかと。折り込みの地図とかいちいち凝っていて、可愛くて即買いでした。



鑑賞記録:「半落ち」

あなたには、守りたいものがありませんか?
<あらすじ>現役警察官の梶という男が妻殺しを自供。ところが、彼が殺人を犯してから3日目に自供してきたことが問題になる。なぜすぐ出頭しなかったのか。梶は空白の2日間のことをいっさい語ろうとしなかった…。(amazonより)

半落ち [DVD]

●「生」と「守りたいこと」を軸に重層的に織りなされたとにかく泣ける作品
いまさらながら、「半落ち」観る。正直あまり期待はしてなくて、ちょっと前に話題になってたから観てみるか程度の気持ちで観はじめました。オープニングは地味だし、柴田恭平が刑事役なので「あぶない刑事www」などと思っちゃったり。しかし静かな展開ながらじわじわと目が離せなくなり、最後は号泣。なんだこれ。確かに名作だわ。

泣ける映画とか言うと、薄っぺらなお涙頂戴モノを想像されてしまうと思うので、「泣ける」とは書きたくなかったのだけど、声を大にして言いたい、そういう薄っぺらな「泣ける系」とは違うんです!と。

テーマがアルツハイマー病の妻から「殺して」と懇願された元警部の嘱託殺人で、骨髄移植の話なんかも絡んでくる、いわゆる「命」をテーマにした話。だからそれだけでドラマチックなわけですが、大切な命を失ってしまう悲しみだけを描いた作品ではないことが、この作品をより深い味わいにしたのではないかと思っています。

元警官の殺人事件と殺害後から自首までの空白の2日間の謎をめぐり、体面を気にする警察幹部や検事局、地方の新聞記者、社会派弁護士として名前を売りたい弁護士など、様々な立場に置かれた人が登場します。言うまでもなく、これらの組織や人々には「守りたいもの」がある。それは体面であったり家族であったり自分であったり、必ずしもご立派なものだけではないのだけど。結局、彼らが守りたいもののために、空白の2日間は謎のままに物語は進んでいくわけですが、映画最後に明かされる空白の2日間の理由とは、まさに、悲しみに満ちた主人公自身の最後の「守りたいもの」のためだった、という種が明かされます。

この構造をみて、この作品はアルツハイマー病の妻を殺した元警部の嘱託殺人という題材を使って、脳の機能を損なった人間(「魂がない」と表現されていたけど)の尊厳や命の重さを扱っていると同時に、平凡に生きる(そして平凡な野心や保身の気持ちを持つ)人々の「生」の喜びと哀しさをも描いたものであるなぁと思ったのでした。

よい映画というのは、観終わった後に整理されないたくさんのことを思い起こさせてくれる作品なのだと実感する映画です。


●俳優陣の演技が神
これも「神」とかいう安易な言葉を使うのはいかがかと思ったが、部分的に不自然なほどドラマチックな設定や音楽が挿入されるこの作品を白けることなくみせているのはやはり演技力だと思ったんで。

主人公を演じた寺尾聰は言うまでもなく、殺された妻の姉を演じた樹木希林は圧巻。ほかにも、柴田恭平はじめとする警察幹部も、ある意味お約束なハードボイルドな雰囲気を楽しめます。ただ、原田美枝子樹木希林が姉妹という設定はいささか無理があるのではないか、と思ってしまいましたが(苦笑)。

賛否両論の吉岡秀隆の演技については、悪くないと私は思いました。ただ、吉岡が出てきてからの脚本に難があるんじゃないかと。法廷で立ちあがって叫ぶ台詞はさすがにリアリティなさすぎですね。あのやり取りは必要だったんだろうか?と、ちょっと残念な気分に。

と、部分的に「ちょっとな・・・」という箇所があるとはいえ、それを差し引いてもあまりある俳優陣の好演でした。

鑑賞記録:「悪人」

・「悪人」

吉田修一の同名小説を「フラガール」の李相日監督が映画化。ある殺人事件の犯人と彼を愛する女の逃避行、引き裂かれていく家族の姿を描く。
土木作業員の清水祐一(妻夫木聡)は、長崎の外れのさびれた漁村で生まれ育ち、恋人も友人もなく、祖父母の面倒をみながら暮らしていた。佐賀の紳士服量販店に勤める馬込光代(深津絵里)は、妹と二人で暮らすアパートと職場の往復だけの退屈な毎日。そんな孤独な魂を抱えた二人が偶然出会い、刹那的な愛にその身を焦がす。だが祐一にはたったひとつ光代に話していない秘密があった。彼は、連日ニュースを賑わせている殺人事件の犯人だったのだ…」
(以上、goo映画解説より)

悪人 スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]

地上波でやってたんで、特に期待もせず観る。が、予想以上の面白さでそりゃ人気なわけだよと納得。

●妻夫木さんってただのイケメンじゃなかったんですね
何といってもこの映画の見どころはキャスティングではないでしょうか。特に主演の妻夫木聡。個人的に,妻夫木聡という俳優は全然好きなタイプではないのだけど、今回の映画でこんなに演技できる人だったのかと見なおした。予告編にも使われている、女に置き去りにされてキレる瞬間のシーンの演技力には痺れること請け合い。そのほかも、深津絵里は地味だけど鬱陶しい地方の女を丁寧に演じていたし(ラストシーンは圧巻でしょう)、満島ひかりは尻軽女の嫌〜な感じを好演していた。主人公を捨てたダメ母に余貴美子、主人公を育てた貧しい祖母に樹木希林とか、出てきた瞬間にニヤリとしてしまうほどの適材適所ぶり。それから、岡田将生は甘ちゃんで自分勝手な金持ち大学生を演じていたが、この人はこういう性格の悪い役の方が断然いいよね。

●「悪人」は場所コンシャスか
このブログでは、「ストーリー展開や登場人物の行動、舞台設定において、具体的な場所が大きな意味を持っている作品」を「場所コンシャスな作品」として扱っておりますが、私はこの「悪人」も場所コンシャスな作品として観ました。それは決して、単に「九州弁だから」とか「呼子の烏賊が出てくるから」とかそういうことではない。まぁ分かりやすいのは、主人公の祐一と光代が初めて会ったときに話す台詞。光代が「小中学校も高校も職場も全部この国道沿い。私の人生って、あの国道から全然離れずにきたんやね」(記憶超うろ覚え)と言えば、祐一も「俺も似たようなもん」と答える。祐一は長崎の漁村で肉体労働につきながら出会いもなく自慢の車は近所の高齢者の病院送迎に使われていて、祖父母の介護要員として田舎の家から出ることは実質的に不可能な状態。地方都市のロードサイドや郊外、過疎高齢化の進む漁村の閉塞感(それが不幸だとは決めつけられないけれど)がよくあらわれているように感じた。

といっても、もちろんこういう描き方は画一的で平板でステレオタイプにすぎると感じる人もいるかもしれない。もっと地方は多面的で多様に描かれるべきだと。私は地方出身だけれどもう10年以上地方に暮らしていないし、地方の暮らしにリアリティを持っていない。もっと多様で多面的な地方とは、どんなものなのか全然イメージがわかない。でも、地方出身で今東京に住む人間からすると上に書いたような閉塞感は妙にリアルに感じられたのでした。

それから、「場所コンシャス」というけれど、上に挙げたような閉塞感は九州北部(福岡・長崎・佐賀)でしか感じられないものではなくて、恐らく現代の地方都市にある程度共通した閉塞感なんじゃないかって指摘もあると思う。「その場所だからこそ」と言っても固有名詞を持った場所ではなくて、大都市とか地方都市とか地方農村とかむしろ「空間」のレベルなのかもしれない。

●面白い、けど救いはない
この話って結局、不器用ながらも地味にまじめに暮らしてきた男女がせっかくお互いを大切だと思える人に出会えたのに、リア充な尻軽女と金持ち大学生の諍いに巻き込まれてその愛(のようなもの)を手放さなくてはならなくなった物語なんですよね。最後に思いがけず愛された主人公祐一がまさ相手を大事に思うがために積極的に「悪人」になろうとする展開に救いはなくて、観終わった後はひたすらに重くて悲しい気分になります。まぁ救いがないからこそのこれだけのインパクトという面もあるのでしょうが、少しは救いが欲しかったなぁなどと思ってしまいました。

DVD祭(鑑賞記録):「ショーン・オブ・ザ・デッド」

・「ショーン・オブ・ザ・デッド
ショーン・オブ・ザ・デッド [DVD]

笑えるしホロリとさせられるしスカッとするし、最高だね!ラブコメゾンビ映画の幸せな結婚という感じ。親や友人がゾンビに変わってしまうシーンは悲しいんだけど、あんまりセンチメンタルにならず、直後に笑わせてくれるセンスがクール。

薦めてくれた友人いわく、こういう笑えるゾンビ映画を「rom zom com」と呼ぶのだとか(romantic comedy + zombie movie)。「これはデートに最適なんだよ!だって女の子はたいていラブコメ(rom com)が好きだけど男は退屈するし、男が好きなアクションやゾンビ映画は女の子がしらけるよね?でもこのrom zom comなら、性別問わず楽しめるからね!」と。確かに納得。

私も普段は映画館に行ってまでラブコメ観たいと思わない方なんだけど、海外行くときロング・フライトで観る映画はたいていラブコメ。だって疲れないし、くだらないけどそこそこ楽しめるから。対象的に男性はたいていアクション映画観てるよね。ロングフライトの機内見渡すと,この対照が結構面白い。

この「ショーン・オブ・ザ・デッド」、ブリティッシュ・ユーモア満載で、ニヤリとできる場面も多い。過去のゾンビ映画やCMをパロディしてる箇所もあって、ドタバタ・コメディは馬鹿みたいであんまり好きじゃないっていう人にも楽しめると思う。

DVD祭(鑑賞記録):「第9地区」

・「第9地区

誰もが驚いた 宇宙船が マンハッタン ワシントン シカゴではなく ヨハネスブルクの真上に現れるなんて


第9地区 [DVD]

ずっと観たかったんだけど、予想以上に素晴らしかった。今まで観たどんな映画とも違う観ごたえに驚嘆した。

エイリアンが出てくるSFなのに社会派、社会派なのにSF。アパルトヘイト南アフリカ、ナイジェリアなど他の民族対立なんかもモチーフになっていて、「異なる他者」の受入とか、「“人間”と定義されていないものの生存権」とか、そういうメタファーが何層にもなってる。

こういうテーマを取り上げるにあたって,舞台がヨハネスブルグであることも意味深い。冒頭、「世界が驚いた。その飛行体がニューヨークでもロサンジェルスでもシカゴでもなく、南アフリカヨハネスブルグに訪れたことに」(記憶うろ覚え)、というナレーションは象徴的だ。エイリアンが地球にやってくる、その「地球」とはどこか?と考えたとき、よく批判されるアメリカ中心主義だけれど、この作品はそれをヒステリックに言葉で批判するのではなく、他の場所を舞台にしたら、こんなにも面白い作品ができたよ、という形で示しているのがかっこいい。この作品には「ヨハネスブルグだからこそ」のディテールや景観が詰め込まれている。非常に場所コンシャスな作品だから、いずれ講義で取り上げたい。

こういうふうに書くと難しい映画のように思われてしまうかもしれないけど、エンターテイメントとしても十分に楽しめる物語,演出になっていて、ドキュメンタリーとドラマの撮影手法のバランスも良い。主人公が無駄にヒロイックじゃないところも新しい。主人公は、作品中盤まで「小役人」的な小心さと傲慢さに満ちた人間として描かれている。終盤になって立場が変わっても、彼の自己中心的な性格がときどき顔を出すのも面白い。こういう人物造形や先に書いた南アという舞台設定は、ドキュメンタリータッチの撮影技法とあいまって、このSF作品に奇妙なリアリティを与えている。

監督解説版で、しきりに「ハリウッド的にしたくはなかった」と監督自身が述べているのが印象的だった。第三世界の最近ヒットした映画といえば「スラムドッグ・ミリオネア」があるけれど、あれはどちらかというとハリウッド的枠組でインドという場所を描いたらどうなるか、という作品だったような気がする。確かに面白かったし描かれるインドの生活は衝撃的だったのだけれど。それに対してこの「第9地区」は、(もちろん完全にというわけではないけれど)、演出脚本舞台設定すべてにおいて全く新しいものを観た、という感触がした。