NYLON100℃「ゴドーは待たれながら」@大阪ABCホール

「誰だってそうじゃないのか。私は待ち合わせをしている。誰かを待たせている。そう思って、なんとか生きているんじゃないのかね?」(NYLON100°C『ゴドーは待たれながら』、2013年、大阪ABCホール)


サミュエル・ベケットの20世紀を代表する戯曲『ゴドーを待ちながら』を下敷きに、待たれている男の一人芝居を描いた、いとうせいこう作、きたろう主演の『ゴドーは待たれながら』(92年)。今回はケラリーノ・サンドロヴィッチ演出、大倉孝二主演での再演。

待ち合わせの場所も時間も忘れてしまい、靴も合わなくなって出かけられないゴドーは、延々と自問し続けます。「私は一番良いタイミングで登場することができるだろうか、そもそも待ち合わせの時間に遅れているのはどうしよう、いやまだその時は来ていないのかもしれない、怒っているだろうか、なめられやしないだろうか」etc...。主役の大倉孝二は巧く、「待っている人がいるのに出かけていけない、小心者でちょっとひねくれ者の神」を、優れた呼吸と身体で見せてくれます。本家『ゴドーを待ちながら』をぼんやりとでも知っている人なら、切望された神(救済者)がこんなに人間くさいなんてと、または「いるいる、こういう人」等と、まずは笑ってしまうでしょう。
ただ、「設定の面白さ」「あるあるネタ」だけで楽しめるのは1時間が限度。一幕の後半、「まさかコレ、このままラストまで行くわけじゃないよね?」と、一抹の不安が。

しかしもちろん、そんな不安は良い意味で裏切られました。
秀逸なのは二幕。一幕で描かれたゴドーの「人間くささ」のリフレインかと思いきや、「時間も場所も希望も絶望も持たないゴドー」の孤独が強調され始めます。自問自答を繰り返す「小心者の神」に、観客が共感を寄せそうになると、ふいとその共感の手から逃れていく。「私には先などないが、それではすまない者もいる」と観客を暗示して(客席のライトも溶明)、観客(=人間)との断絶をくっきりと示す。最後までゴドーは自問自答と煩悶を繰り返すのですが、もはや私たちはゴドーへの安易な共感の回路から断たれていることに気づくのです。
個々の台詞からは、「これは殻を破れない現代人の物語だ」とか「終わりなき日常の閉塞感を表現している」とか「いやいや、アイデンティティの揺らぎの比喩だ」といった理解へ誘いこむようなキーワードも登場しますが、人間の世界で共有される時間も場所も希望も絶望も持たない神という設定によって、そうした「安心できる説明」は徹底的に拒絶されます。もはやつまらないのか面白いのか分からない。それでも目が離せないのは、舞台上のゴドーの姿に、誰にも理解も共感もされえない圧倒的な「孤独」のありようが立ち現われるからでしょう。

「待たれること」がテーマの本作ですが、私にはゴドーと待ち人との関係が、劇作家と観客との関係にもみえました。特に、喜劇の作り手と笑いを欲しがる観客との関係に。「いつも(いつか)笑わせてくれる」と期待される劇作家や役者の孤独に重なったのは、長く喜劇を作ってきた今回の演出家と役者ゆえかもしれません。
終盤は、観劇しながらも自分の足元がぐらぐらするような不確かさ。「カタルシス」とは無縁のラストに、観終わった後もしばらく動揺さめやらず。「孤独」「待つ/待たれる者」という普遍的な問いを、観客-作り手から成る演劇の基本構造とオーバーラップさせながら描いた本作はやはり前衛で、設定オチ喜劇の形をとった批評として成立させ、醍醐味である「動揺」を存分に味わわせてくれます。

原作の戯曲の素晴らしさは言うまでもなく、効果的に原作を刈りこんだ演出も見事でした。ライティング(影の使い方)にも過不足がなく、戯曲の刈りこんだ部分を補足しながら、抑制のきいた演出。ナイロンの十八番であるアニメーションや映像投影を期待してしまったが、観終わってみるとやはりなくて良かった。変化の少ない2時間の一人芝居を演じきった大倉孝二も、単なる「笑わせてくれる俳優」だけではない実力を見せつけました。

本作で描かれた「待たれること」と「孤独」の関係ももう少し整理したかったのだけど、またの機会に。上の感想を考える際に、参考になったサンカクさんとのtwitter上でのやり取りを以下に引用。(というか、ほとんどサンカクさんに言語化してもらっている感じ。ありがとうございます。)本家、『ゴドーを待ちながら』のケラさん演出も観てみたい。やってくれないかなぁ...。

【2013年4月22日、「ゴドーは待たれながら」の観劇直後(私=mico-mof、友人=サンカクさん)】
mico-mof:「ゴドーは待たれながら」観了。二幕の展開が秀逸。前半、設定オチの作品かと心配になりながら観た。後半、「私が観ているこれは何?(観ている私は何?)」と足元がぐらつくような不確かさを畳み掛けてくる。つまらないのか面白いのか分からない、なのに目が離せないこれは何?と。
サンカク:おお、ご覧になりましたか。「つまらないのか面白いのか分からない、なのに目が離せないこれは何?」、そうそう、私もそういう感想を言いたかったんです。さすが演劇部長。観劇後なぜか動揺してパンフレット買っちゃいましたもん。
mico-mof:同じくw 単純な理解を拒絶してるのに観続けさせてしまうのはやはり良い本なのでしょうね。
サンカク:あと、オリジナル戯曲を読むと、ケラさんの端折り方がかなり上手だなって分かりますよね。ゴリゴリした部分を上手に削りとってストーリーを書かれた文字から役者の身体になじむものに変容させようとしている。
mico-mof:いま引用のために完全版を初めてみて、刈り込みに驚いていたところでした。刈り込んだ分をライティング等の演出と役者の身体で説明しているという感じでしょうか。ケラさんは(自分の本だと特に)説明過剰にしすぎる時があるけど、今回は良い相性でしたね。
サンカク:そうそう、自分の本だと足すことで理想に近づけていくけど、他人の本だと引くことで近づけるしかないから、それがよかったんでしょうね。
(中略)

mico-mof:全体的に、どうしてもこれが書かれた時代背景を考えずにはいられなかったんですが(アイデンティティとか終わり無き日常とか)、ゴドーという存在の「分からなさ」が奥行をもたせている気がしました。希望も絶望も時間も場所も持たない孤独な存在って、想像不能だから。
サンカク:なるほど、これは蒙を啓かれました。そうか、ゴドーを我々の素朴な理解に繋ぎ止めるための文脈が徹底的に排除されているから、観るものに待たれることと孤独のありようについての普遍的な問いを投げかける、というか。
mico-mof:さすが...言語化ありがたいです。一幕はどちらかというと人間臭い素朴な孤独とか寂しさとか焦燥感が描かれるのだけど、二幕は客の安易な共感を突き放す台詞や演出が際立っていたと思うんですよね。だからこそ客は目が離せないというか。
サンカク:うんうん、二幕は一幕のリフレイン的なものか、と客に思わせておいて急カーブを切って予想外の方向へ進むからびっくりしますよね。かと思ったら客席に演者が語りかけるし。翻弄されっぱなし。
mico-mof:で観終わったあと、これは喜劇を作ってきた人の作品だな、とも思いました。笑いをほしがる客との距離の話も内包されてる気がして。これは読み込みすぎかもしれませんが。
サンカク:もう少し広げると、理解したいとか消化したいとか、そういう欲求によって劇中の「孤独」を紐付けして凡庸なところに繋ぎ止めさせてはくれないんですよね。その心もとなさがもっとも劇的に現れるのが「笑えなさ」の出現、というか。
mico-mof:うんうん、紐づけて笑わせたり泣かせたりするのがエンターテインメントの王道ですもんね。だからこの作品はやはり前衛で、設定オチ喜劇の形をとった批評?になってるのだと思います。
サンカク:「設定オチ喜劇の形をとった批評」に関しては、本家の『ゴドーを待ちながら』に詳しい(だけの)人はどう受け取ったのかが気になります。私は耳学問であれとの対比ならシリアスな劇、でも大倉さんだから喜劇?みたいな感じで、視点の設定具合がかわからないまま観た感じなので。
mico-mof:確かに大倉さんじゃなかったらもっと笑いは少なかったかもですね。実は私も(恥ずかしながら)本家のゴド待ちは又聞きの耳学問みたいな感じで、比較できず…。ゴドーの孤独が前面に押し出されている印象を受けるかもしれないですね
サンカク:パンフレットに書いてあったけど、きたろうさんと大倉さんで本家のゴド待ちやってほしいですね。ケラさん演出で。