劇団、本谷有希子「クレイジーハニー」

本谷さんの新作「クレイジーハニー」観てきました。パルコ劇場、主役は長澤まさみリリー・フランキーということで、大ハズレなないだろう、と予想していたのですが・・・残念ながら、その予想は外れたと言わざると得ません。

可愛らしいルックスと過激な毒に満ちた自分語りの作風のギャップで売れたといっても過言ではない本谷さん。しかし早晩、それだけでは飽きられてしまうだろうから、次のフェーズに行って欲しいと「幸せ最高ありがとうマジで!」の感想に書きました。本谷有希子「幸せ最高ありがとうマジで!」 - ねこに、劇場。

続く「来来来来来」「甘え」では、新たな展開を見せてくれたと思ったのですが・・・今回は再び自分語りに戻った印象。しかも極めて中途半端な形で。

完全な断絶と完全な依存?
新たな展開を感じさせた前2作とは異なり、ストレートな自分語りに戻った本作。しかしかつての「自分語り作品」と異なるのは、毒の矛先と自虐の中途半端さ。20代の頃には「私は誰とも分かりあえない。それがどうした?これが私」と痛快な自意識を表現していた本谷さんですが、本作で矛先が向けられるのは、「落ち目の携帯小説家」である主人公(これが本谷さん自身の投影だと連想しないのは難しい)に群がる「勝手で気持ち悪いファン」。

「面白いものを書けなくなった私」は、「それがどうした」と開き直るでもなく、周囲と前向きな関係性を構築しようとするでもなく、「ファンに辛酸をなめさせてやりたい」と攻撃。「ファン」とは分かりあえないままに断絶した主人公は編集者と体の関係を結ぼうとするなど「一人ではいられない」人間として描かれる。挙句、ラストには「親友」であるゲイのコラムニスト(?)が視力・聴力も失っても「私を使って面白い話を書きなさい」と人生のすべてを捧げて終幕。

かつては、自分勝手な主人公が周囲との摩擦の末に改心したと見せかけて全く改心しない痛快なまでの断絶(「遭難、」のラストのあくびは圧巻だった)が描かれてきたと思うのだけど、本作では、「誰も私を分かってくれない、ファンは身勝手、だけど私に無償の愛と奉仕をくれる人が欲しい」という子供じみた欲求が透けて見える痛々しさ。

申し訳ないけど、芥川賞を逃し、劇作でも行き詰っている30代女子の心の迷いをそのままに舞台へ載せた感は否めません。ある意味、ここまで正直に舞台に載せられてしまうのもまた才能と言えなくもないですが、20代がそれをやるのと30代がそれをやるのは大きな違い。

ストーリー展開の甘さと凡庸な空間構成
もちろん、「気持ち悪さ」の表現力については、やはり本谷さん。インターネット上のクチコミや「祭り」を彷彿とさせる「ファンの気持ち悪さ」の表現にはハッとさせられる。それから、目も耳も潰れたゲイの親友の最後の台詞が「それにしてもクソみたいにつまらない夜だったわね」というのはこの役の人物造形として魅力的だし、台詞そのものがまさしくこの作品を自嘲しているかのようで気が利いている。

それでも、謎かけや伏線なく1時間以上繰り返される「気持ち悪い光景」は、よほどの本谷作品ファンでなければ楽しめないのでは。終盤前、主人公が「私はもう面白いものなんて書けないよ」と言うのが一つの山場だとは思うけど、そこに至るまでの展開が丁寧に作られていないので唐突な印象。

それから、これは前々から書いていることだけど、何の工夫も感じられない凡庸な空間構成にはがっかりでした。(これも前二作では工夫が感じられたのに、時間がなかったんでしょうか?)やはり舞台って空間芸術だから、セットにセンスがあるだけで「上質感」が出るものだと思うんだけど。まぁこれに関しては、そろそろ諦めが入ってきました。

# 同行した友人いわく、「ハコの大きさが合ってないのでは」とのこと。セットにしてもストーリーにしても、いわゆる「小劇場」的だと。もう少し小さな劇場でやれば、もしかするとあのセットでも行けるのかもしれないけど、大きな劇場を使いこなせていないと。それには同感。

観るべきところは役者
140分という長丁場をもたせているのは役者の力。リリー・フランキーはさすがにトークの人だけあって間が上手。演技でも十分やっていけそうな感じでした。長澤まさみは蓮っ葉なキャラが予想以上に観られる演技。ただやはり上記二人はテレビの人だけあって動きが一本調子で後半つらい。

それでも、「ファンの気持ち悪さ」を余すところなく表現している小劇場系俳優の演技力がしっかり脇を固めているので、堂々巡りの展開でも一定の緊張感を持って観ることができます。今回は吉本菜穂子さんはあまり前面に出てなかったな。


20代の頃、「若い女であることを利用してます」と言い切っていた本谷さん。若い女でなくなった今後の創作がどの方向に向かうのか、少なくともあと2作程度は追い続けたい気持ちです。でももしかすると、舞台には見切りをつけて文学の方に行くのかな?ファンに投げつけた「挑戦状」とも「離縁状」ともとれる今回の作品、シンパだけに囲まれたいのか、別の境地に突き抜けたいのか、ご自身でも迷っている印象を受けました。こんなことを書けば、「あなたたちは私よりも私のことを分かっているのね!」と言われてしまうのかもしれないけれど。


#追記
実は今回、「本谷有希子」の劇を観てみたい、という友人二人も一緒に行ったのだけど、観劇ビギナーの友人Aは「面白くないのは私の頭が悪いから?って不安になった」、小劇場に見切りをつけた友人Bは「小劇場に見切りをつけたのはこういう作品に付き合うのが嫌になったから、ってのを思い出した」と。

小劇場観劇者として、こんなに残念なことはない。私、たいてい、ビギナーを小劇場に連れてきて失敗してるんですよね・・・。以前、宮沢章夫のエッセイが好きだという友人が劇も観たいというので連れてったら見事な実験作で、「二度と観劇はしないと思う」とまで言われてしまったことも。実はこれがトラウマで、あんまり人を誘わなくなった。

しかしやはり小劇場演劇(にお誘いする)というのは、相当にリスキーなものだなと痛感いたしました。私はやはり地方出身なんで、こういう「わけのわかんない作品に付き合う」のも、ある意味「都会でしかできない体験」として納得できるのかも。東京以外では、物好きな客も少ないから玉石混交な小劇団の数が少ないので。ま、10代の頃サブカル含め「文化」にアクセスできなかった田舎者の酔狂です。

面白くなかったのは私の責任じゃないし凹むことでもないけどさ、やっぱり凹むよね・・・観劇ファンとして。小劇場系(現代演劇というくくりでも)にビギナー誘うときの「鉄板」があるなら知りたい。