第三舞台「トランス」

2006-11-21

1993年に初演された、第三舞台の「トランス」→詳細はこちら

私が高校時代、先輩で鴻上尚史作品が大好きな先輩がいて、
色々と戯曲を見せてもらったりしたものですが、
その中で、当時いちばん好きだった作品。
もちろん、鹿児島という田舎でビデオ等も入手できず、
上演されたものは観たことがなかったのですが、
戯曲の「朝日のような夕日を連れて」の分かりにくさ(当時)に比べると、
ナチュラルな舞台設定や台詞のやり取りが、親しみやすかったのかもしれません。

だからこそレンタルビデオ屋で「トランス」のビデオを見つけたとき、迷わず借りたわけですが、
いざ鑑賞してみての感想は、期待していたほどではなかった、というのが本音。

この作品は人気が高くて、初演以降キャストを代えて何度か公演されているから、
これはもう、好き嫌いの話になってくるんだと思うんですが、
「朝日のような夕日を連れて」を観たときに感じた、
表層のどうしようもない古さに対する深層のどうしようもない奥深さというか、
だからこそ観終わったあと「魂を揺さぶられた」とまで感じてしまったのだと思うのだけど、
「トランス」にはそれがなかったのです。
台詞のやり取りが「それらしい会話の継ぎ合わせ」のように感じられて、
後半は飽きて、洗濯物を干しながら観てしまいました。

舞台設定がナチュラルなだけに、90年代初め的な台詞まわしが気になって、
あまり舞台に入り込めなかったというのもあります。
こないだ観にいった「イヌの日」では、「●●じゃなくない?」などのような、
語尾に向かって上がっていく「若者言葉」が多用されていて、
それが非常にリアルでナチュラルに聞こえたものですが、
きっとアレが映像になって10年後にでも観たら、「何て古いんだろう」と気になることでしょう。
そもそも舞台というのは生モノだから、こうして映像に残すのは邪道なのかもしれません。

あと、技術的な部分でいうと、「ビデオバージョン」だったために、
本来ならば暗転しているだろうつなぎの部分に、
安っぽい別撮りイメージ映像が流れてしまい、
暗転の味がまったく失われて、怒りすら感じてしまいました。

例えば、ある人物が病院の中で行方不明になって探す、という場面があるのですが、
普通、こういう場合は暗転にして声だけで探すとか、
役者が舞台と袖を往復することで表現するのに、
(このへんも演出家によって演出方法が違って楽しめるのに)
ここでいきなり別撮り映像が流れて、カラオケのイメージドラマみたいで萎えました。
こんなテレビドラマの真似事みたいなことは絶対にやめていただきたい。

そして、思い出深い作品だったからこそ、
自分自身の変化についても考えることになりました。

高校の頃は、私は自然主義的で「静かな」雰囲気の芝居が好きだったんだなぁ、と、
この作品を観て、今とのギャップに気づかされることになりました。
時間軸や空間軸が素直で、展開の分かりやすい話が好きだったんです。
今は、「日常の模倣」を観たいのなら別に舞台で観る必要はないし、
それならテレビドラマの方がよっぽど面白いし巧く出来ると思うんです。
もちろん、生で舞台を観ることで生の役者の息遣いを感じられるというのは魅力だけど、
お金払ってテレビドラマの真似みたいな作品を観るのは嫌ですね。
熱狂的に好きな役者というのもいないし。

そして当然のことといえば当然のことなのだけど、
好きな「テーマ」も変わったのだなぁとしみじみ思いました。
昔は、不条理や虚無なんて何の興味もなかった。
あの頃、カフカの『変身』も読んだけど、全く理解できなかったし。
幼かったので、世の中の出来事はすべて言葉で説明できるし、
そうされるべきだと思っていたんです。
努力すれば何でも思い通りになると思っていたし、
そうならない人は努力が足りないのだと思っていました。

恐らくこういう浅はかさと関係して、分かりやすい話が好きだったんだと思います。
最後に、「この物語の教訓は・・・」と種明かししてくれるような物語、
台詞によってある程度深層が説明されている物語が好きだったんだと思います。

今は逆に、深層が説明された分かりやすい物語はつまらない。
分からないのを考えるのが楽しいのだし、
だからこそ何度でも観たくなるのだと思うのです。

そういう意味で、残念ながらこの作品はあまり好きではありませんでした。
朝日のような夕日をつれて」が名作すぎたのでしょうか、
90年代の第三舞台の作品を観るにつけ、芝居に勢いを感じなくなるのが悲しいところです。